プロフィール
志田林三郎は 安政2年(1855)、現在の佐賀県多久市東多久町に生まれた。 幼い頃から計算に長け『神童』と呼ばれていた林三郎は、名字こそ許されていたものの恵まれた身分の生まれではなかった。しかし学問が盛んであった多久の土壌や周囲の人々が、林三郎の前途を切り開く。地元の庄屋から読み書きそろばんを習い、林三郎の評判が領主の耳に留まり、面接の結果その才を認められ、金銭の援助も受け、東原庠舎(多久の邑校)で学ぶ事を許される。東原庠舎は、当時としては非常に珍しく、身分に関わらず誰でも学ぶことができる学校であったが、正式な入学となると武士の子弟に限られていた。林三郎はその際、正式に入学するため「卒」の身分まで与えられた。その後、石丸安世の私塾で英語等を学んだ後、藩命で進学した工学寮(東京大学工学部の前身)を主席で卒業し、官費で英国グラスゴー大学に留学するなど、進学する先々で優秀な成績を残している。
学寮時代には、日本政府から依頼された軍事偵察用の軽気球実験に成功、 またデンマーク船に乗って海底ケーブルの修理に参加するなどの実践も重ね、留学先では、たった1年の在学中に年間の最優秀論文に贈られるクレランド金賞(右画像)も受賞し、その快挙は英国の新聞も絶賛したという。 帰国後もその勢いは衰えることなく、志田博士の活躍は続く。 工学寮時代の恩師・エアトンの後を受け、工部大学校初の日本人教授に就任。研究と後進の指導にあたるかたわら、技術官僚としても勤務し、電信関係の管理指導を行なった。明治18年(1885)に行なった、河川を利用した『導電式無線通信』の実験は、マルコーニが無線実験を成功させる10年前のことだった。 1887年5月に制定された学位令により、翌明治21年(1888)に博士号を授与され日本初の『工学博士』の1人となる。 時を同じくして電気学会を創立、同年6月に行なわれた第1回通常会では、幹事である志田博士も演説を行なった。その中で語った電気工学の未来を確かな根拠を基に予測した『将来可能となるであろう十余のエレクトロニクス技術予測』は、志田博士の先見性の高さが表れ、今なお評価されている
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