プロフィール
細井平洲は、江戸時代の中ごろ、享保13年(1728)6月28日に、尾張国〈おわりのくに〉知多郡平島〈ひらしま〉村(現在の愛知県東海市)の農家の二男として生まれました。名前は徳民〈のりたみ〉、通称は甚三郎〈じんざぶろう〉で、平洲というのは号〈ごう〉です。
寺子屋に通ったのち、名古屋の医者のもとで学び、いろいろな人とも交わり、将来は儒学〈じゅがく〉を学びたいという志をいだき、数え年16歳で京都に遊学しました。そして、帰郷後、名古屋で叢桂社〈そうけいしゃ〉という私塾を開いていた中西淡淵〈なかにし・たんえん〉に入門しました。
18歳のとき、中西淡淵の勧めを受け、中国語を会得して詩文学を大成するために長崎に遊学しました。
24歳で江戸へ出て、私塾 「嚶鳴館〈おうめいかん〉」を開きました。諸侯の師としても招かれるようになりましたが、その最初は26歳のときで、伊予西条〈いよさいじょう〉藩主の松平頼淳〈まつだいら・よりあつ〉との結びつきでした。そして、長崎以来研究を続けてきた『詩経古伝〈しきょうこでん〉』の校本を30歳で完成し、2年後に刊行しました。また、京都遊学以来の詩をまとめて『嚶鳴館詩集〈おうめいかんししゅう〉』を37歳のときに刊行し、好評を博しました。同じ年、14歳だった米沢藩主・上杉鷹山〈ようざん〉(鷹山は号。名は治憲〈はるのり〉)の師となり、心血を注いで教育にあたりました。鷹山は、後に名君として称えられましたが、生涯、平洲を師として仰ぎました。
安永9年(1780)、53歳のとき、生国尾張〈おわり〉藩の儒者となり、天明3年に竣工〈しゅんこう〉した藩校・明倫堂〈めいりんどう〉の督学兼継述館総裁〈とくがくけんけいじゅつかんそうさい〉となりました。平洲は明倫堂での教授、『群書治要』〈ぐんしょちよう〉の校訂などのほか、庶民教育にも力を注ぎ、領内各地で講話を行ない大きな功績を残しました。享和元年(1801)6月29日に江戸で没しました。
平洲の思想は、上杉鷹山が編纂を命じた『嚶鳴館遺稿〈おうめいかんいこう〉』、西条藩主の上田雄次郎〈うえだ・ゆうじろう〉が編集した『嚶鳴館遺草〈おうめいかんいそう〉』にまとめられています。また、大正8年(1919)に高瀬代次郎〈たかせだいじろう〉が著わした『細井平洲』は平洲研究の原点となっています。
ことば
学・思・行相須〈がく・し・こうあいま〉って良〈りょう〉となす
細井平洲は、実践を最も大切にしました。そのことを述べたことばで、学問と思索と実行が3つそろって、はじめて学問をしたということができる、という意味です。平洲は学んだことを生かして、生活をよりよくしていくことを常々説きました。また、「学問と今日(現実)とは二途にならざるように」とも説きました。
勇〈ゆう〉なるかな勇なるかな、勇にあらずして何〈なに〉をもって行なわんや
米沢の青年藩主・上杉鷹山の初のお国入りに際して、師の細井平洲が与えたことばのひとつ。「これから立ち向かわんとする藩政改革にあたって最も必要なのは勇気ですよ。勇気なくして、どうして政治が施せましょうか」という意味。まず、最初は「勇」をもって始めることが大切であると諭〈さと〉しました。
ふるさとの自治体「愛知県東海市」
細井平洲が生まれ育った愛知県東海市では、人々の生活を豊かにすることを願い、知識の実践を重んじた細井平洲の教えを原点として、さまざまな地域づくりに取り組んでいます。また、その伝統と精神を受け継ぐために、小中学校の道徳の授業などを通して子どもたちにも伝えています。
関連リンク
関連施設
東海市平洲記念館
細井平洲の事跡が紹介された記念館。ホームページには「嚶鳴館遺草」原文紹介、作家で平洲記念館館名誉館長の童門冬二氏、平洲の教えをわかりやすく毎月紹介する「童門冬二の平洲塾」などがあります。
※東海市公式ホームページより教育委員会ホームページに入り、「施設紹介」の「平洲記念館・郷土資料館」をクリック