プロフィール
a上杉鷹山〈うえすぎ・ようざん〉は、宝暦元年(1751)7月20日、日向国高鍋〈ひゅうがのくに・たかなべ〉藩主秋月種美〈あきづき・たねみつ〉の2男として江戸で生まれました。幼名は松三郎〈まつさぶろう〉です。10歳(数え年)のとき、男子のなかった米沢藩主上杉重定〈うえすぎ・しげさだ〉の養子となり上杉家の桜田邸に移りました。祖母は上杉綱憲〈つなのり〉の娘で、鷹山は上杉家の血もひいています。14歳から細井平洲〈ほそい・へいしゅう〉より藩主教育を受け熱心に学びました。16歳で元服し、将軍家治〈いえはる〉の一字を賜って治憲〈はるのり〉と名乗りました。鷹山というのは後の号です。
17歳になった明和4年(1767)に家を継ぎ、第9代米沢藩主となりました。当時の米沢藩は、家臣団の多さ、幕府御手伝普請〈おてつだいぶしん〉、飢饉〈ききん〉などで藩財政は困窮し農村も疲弊した状況でしたが、鷹山は「民の父母〈たみのちちはは〉」の気持ちで藩を立て直そうと決意し、大倹約令を布達〈ふたつ〉、自ら率先して倹約に努めるなど、改革に着手しました。
農業の大切さを示すため自ら田を耕す「籍田〈せきでん〉の礼」を行なう一方、腹心の竹俣当綱〈たけのまた・まさつな〉や莅戸善政〈のぞき・よしまさ〉らは、漆〈うるし〉・桑〈くわ〉・楮〈こうぞ〉の100万本植立や縮織〈ちぢみおり〉の導入を図るなど積極的な殖産政策を進めました。また、学問が重要と師細井平洲の指導の下で藩校「興譲館〈こうじょうかん〉」を設立し、人材育成に努めました。
この間、旧守派重臣たちによる反対事件が起きましたが、鷹山は多くの家臣の意見を聞いた上で、果断に反対派を処罰し、危機を乗り切りました。
天明5年(1785)、35歳で隠居。その際、藩主の心得として養子治広〈はるひろ〉に「伝国の辞」を贈りました。同7年 、「国政別格」と幕府から表彰され、老中松平定信〈まつだいら・さだのぶ〉は「三百諸侯〈さんびゃくしょこう〉随一の名君」と讃えました。隠居後も藩政を後見、改革は続けられ、養蚕・絹織物が特産物に発展し、農村は興隆、藩財政も好転しました。
文政5年(1822)3月12日、米沢で死去、享年72でした。
藩政改革を成し遂げた名君と称される鷹山の業績を紹介した書籍は、甘粕継成〈あまかす・つぐしげ〉著『鷹山公偉蹟録』や童門冬二著『小説 上杉鷹山』をはじめたくさんあります。また、内村鑑三〈うちむら・かんぞう〉著『代表的日本人』によって世界にも紹介され、今なお理想のリーダーとして高い評価を得ています。