所郁太郎

所郁太郎Tokoro Ikutarou 天保9年(1838)~慶応元年(1865) 幕末の志士 大野町(岐阜県)
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プロフィール

 所郁太郎(ところ・いくたろう)は、天保9年(1838)3月に中山道赤坂宿(岐阜県大垣市)の醸造家 矢橋亦一の四男として生まれました。11歳のとき西方村(岐阜県揖斐郡大野町)の医師 所伊織に見込まれて養子に迎えられ、若くして漢学・医学を修めました。
 嘉永6年(1853)、16歳の時、黒船来航の報を聞いて京都遊学を志し、18歳で京都の安藤桂州、21歳で越前大野の伊藤慎蔵、23歳で大坂の緒方洪庵の適塾で西洋医学・洋学・兵学を学びました。その後、桂小五郎(後の木戸孝允)の知偶を得て京都長州藩邸の医院総督に仕官し、文久3年(1863)には長州に赴いて正式に召抱えられ、遊撃軍参謀兼医学総長という異例の重職に任じられました。
 幕府征長軍がせまる中、長州藩内は恭順・抗戦両派が厳しく対立しました。元治元年(1864)9月、正義派(抗戦派)の首領 井上聞多(後の井上馨)が刺客に襲われ瀕死の重傷を負いました。郁太郎が畳針で縫合して聞多の一命を救ったのはこのときのことです。
 藩は恭順派が掌握して征長軍に降伏し正義派を次々に粛正しました。同年12月、正義派の高杉晋作は功山寺(下関市)に挙兵します。晋作に同調したのは伊藤俊輔(後の伊藤博文)や郁太郎らわずか80名でしたが、次第に諸隊が合流し、1月16日に大田・絵堂(美祢市)の戦いで正義派が大勝したことで長州の藩論は倒幕と決しました。
 元治2年(1865)、二度目の征長軍に備えて諸隊が布陣する中、郁太郎は吉敷村(山口市)の陣中で発病し、3月12日に没しました。腸チフスといわれています。享年28歳。墓は吉敷の東三舞と赤坂妙法寺(大垣市)にあります。
 郁太郎の書簡などは数少ないですが、「辛苦 忠を思い身を思わず 医は人の病を医し大医は国の病を治す」との言葉が残っています。