二宮尊徳

二宮尊徳ninomiya sontoku 天明7年(1787)~安政3年(1856) 農政家・思想家 小田原市(神奈川県)
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プロフィール

二宮尊徳は、天明7(1787)年7月23日に、相模〈さがみ〉の国足柄〈あしがら〉郡栢山〈かやま〉村(現在の小田原市)の比較的裕福な中流農家の長男として生まれ、名は金次郎〈きんじろう〉となづけられました。

金次郎が5歳のときに酒匂川〈さかわがわ〉の氾濫で田畑が流され、両親は、田畑復旧のために懸命に働きましたが、金次郎が14歳のときに父が、16歳のときに母が亡くなり、追い討ちをかけるように再び洪水に襲われ、ついに一家は離散し、金次郎は伯父〈おじ〉万兵衛〈まんべえ〉に引き取られました。

伯父の家で懸命に働いているこの頃、知人から少しの菜種を分けてもらい、近くの荒地に蒔いて翌年には百倍以上の収穫を得たり、あぜ道に捨てられた苗を拾い、耕地に植えて育て、秋には一俵のコメを収穫しました。これらの体験により生涯を貫く理念「積小為大〈せきしょういだい〉」(小を積んで大を為す)を悟りました。

伯父の家を18歳で去り、他家に住み込みながら働き、24歳の頃には家を再興しました。その後、小田原藩の家老服部家に奉公し、31歳のとき、家計の苦しかった服部家の財政建て直しを依頼され、その仕事をしている32歳のときに、小田原藩主大久保忠真〈おおくぼ・ただざね〉から働き者であると表彰された時の文言、「その身はもちろん、村のためにもなり……」に強く感動し、生涯「世のため人のために尽くそう」という使命感に目覚めました。

その後も経済的に苦しむ藩士のために五常講〈ごじょうこう〉という信用組合のような制度や、年貢米を計る枡〈ます〉の統一を藩主に願い出て改良新枡〈かいりょうしんます〉を作り、多くの武士や農民の生活を楽にするように工夫しました。

こうした金次郎の能力・手腕を高く評価した藩主大久保忠真は、分家の宇津家の領地、下野国〈しもつけのくに〉桜町領(現、栃木県真岡町)の復興と財政再建を命じました。金次郎はこの事業を成功させたことにより、近隣各地から指導の依頼が相次ぎ、そのやり方は「報徳仕法〈ほうとくしほう〉」として各地に広まり、後に600余りの村々の財政建て直しや復興指導をしました。

より深く知るために

関連施設

尊徳記念館

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[定休日] 年末年始(12/28~1/3) ※図書室のみ、毎月第4月曜は休館
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小田原市尊徳記念館・二宮尊徳生家

本・マンガ

『小説 二宮金次郎』(童門冬二著、学陽書房人物文庫他)..

『二宮尊徳の経営学』(童門冬二著、PHP文庫)