プロフィール
池田草庵は、文化10年(1813)7月23日、池田孫左衛門の三男として、現在の兵庫県養父市八鹿(ようか)町宿南(しゅくなみ)に生まれました。
天保2年(1831)、京都へ出た草庵は相馬九方(そうま・きゅうほう)に入門し、儒教を勉強しました。その後、陽明学を学び、学問上の自信を得た草庵は、天保11年(1840)、京都一条烏丸に塾を開きました。そして、天保14年(1843)、草庵はこわれるままに但馬に帰りました。
故郷に帰った草庵は、八鹿村に「立誠舎」(りっせいしゃ)という漢学塾を開き、弟子の教育をはじめました。そして、弘化4年(1847)、35歳の時、自分の生まれた宿南村に「青谿書院」(せいけいしょいん)を作って移りました。
草庵は、門人たちと青谿書院で共同生活をし、知識だけでなく自分自身の行動に責任を持つ「慎独」(しんどく)を重んじ、人間の生き方、人格の形成をめざす知識と実行を兼ね備えた人間の育成に心をくだきました。門人たちには、全国34藩の武士の子弟をはじめ、庄屋等の子弟など、農村のリーダーとなる者も多くいました。延べ673人に達する但馬内外の門人を教育しました。
草庵は39歳の時、江戸に約1か月滞在し、当時最も有名であった佐藤一斎に面会しました。嘉永4年(1851)3月、80歳の佐藤一斎の講義をうけました。また、草庵の生涯の学友には、京都の春日潜庵(かすが・せんあん)、讃岐国多度津の林良斎(はやし・りょうさい)がいました。
嘉永5年(1852)、宇都宮藩郡奉行・岡田真吾の推薦で、宇都宮藩主の先生としての儒学者就任の依頼がきました。用人の待遇が与えられ、藩主と対面して教え、年収は2百石にもなりますが、「名声や金銭があっても学問はできない。清貧に甘んじて生き方を探り、郷里の人材を育てる」という理由で辞退しました。そして、但馬地方だけでなく、日本の近代化に貢献する多くの人材を育てました。
草庵の教えを受けた人には、東京大学総長や文部大臣となった浜尾新(はまお・あらた)、文部大臣となった久保田譲(くぼた・ゆずる)、東京大学眼科学教室教授の河本重次郎(こうもと・じゅうじろう)、陸軍大将の井上光(いのうえ・ひかる)、琵琶湖疎水を開いて日本最初の水力発電所を建設した京都府知事・北垣国道(きたがき・くにみち)などの人々がおり、まさに、池田草庵は但馬聖人でした。
ことば
志は高遠(こうえん)を期し、功は切近(せっきん)を貴ぶ。
「肄業餘稿(いぎょうよこう)19条」
理想は高く持ち、学問は身近に役立つことを重んじる
学を為すは、例(たと)うれば猶山(なおやま)に登るがごとし。辛さを喫(きっ)し、苦しきを喫して、歩歩力(ほほりょく)を著(つ)け、而(しか)る後、能(よ)く千仭(せんじん)の高きに至る。高きに至れば則(すなわ)ち眼界自(がんかいおのずか)ら闊(ひろ)く、況味超然(きょうみちょうぜん)たり。
「肄業餘稿36条」
学問をすることは、例えれば、山に登るようなものだ。つらさを味わい、苦しさを味わい、一歩一歩力強く進んでいき、ようやく高いところに達する。高いところに到達すると、視界が自然と広く開け、今までの自分から抜け出し、高く超えたような気持ちになるものである
学ぶものは、事(こと)を厭(いと)い、労を辞すべからず。
「肄業餘稿93条」
学問をする者は、日常の営みや働くことをいやがってはいけない
人を欺(あざむ)くべきも、自らは欺くべからず。
「肄業餘稿143条」
人は欺くことができても、自分は欺くことはできない
凡(およ)そ学ぶものは、以(もっ)て、自己の心身を成就(じょうじゅ)するのみ。
「肄業餘稿252条」
学問をする者は、学ぶことによって自分の身と心をりっぱに完成させることが大切である>
ふるさとの自治体「兵庫県養父市」
関連リンク
池田草庵をふるさとの先人とする養父市では、高い志をもって生涯学び続けることの大切さを説いた草庵先生の生き方を、「0歳からの一貫した教育環境づくり」に反映させるべく取り組んでいます。また、“自分が独りでいるときでも心を正しく持ち、自分に恥ずかしくない行いをする”という「慎独」〈しんどく〉の精神が広く市民に伝わることを願い、こころ豊かな人づくりに力を入れています。
関連施設
青谿書院資料館(せいけいしょいんしりょうかん)
[住所] 〒667-0003 兵庫県養父市八鹿町宿南101-3
[電話] 079-662-4378
[開館時間]
(午前9時から午後5時
[休館日]不定休(事前申込が必要)
[入館料] 資料費300円