山本芳翠

山本芳翠Yamamoto Hosui 嘉永3年(1850)~明治39年(1906) 洋画家 恵那市(岐阜県)
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プロフィール

 山本芳翠は嘉永3年7月、恵那郡野志村(現在の恵那市明智町)で農業と養蚕を営む山本権八の長男として生まれた。芳翠が画家を志すようになったのは、寺子屋の先生、安住寺住職が語った新しい世界の話と当時出回っていた北斎漫画によると言われている。
 慶應元年、芳翠16歳の時、京都へ出、久保田雪江に南宗画を学んだが、本格的に学ぶため中国に渡ろうと横浜に出た。ここで目にしたのが五姓田芳柳の洋風画であった。この新しい表現法に感動し、洋画に転向。この時、芳柳の門下生となり芳翠の号が与えられた。
 芳翠が油彩画に本格的に取り組んだのは、明治9年、工部美術学校が開校され、フォンタネージに師事してからである。明治10年、第1回内国勧業博覧会があり、芳翠は『勾当内侍月詠図』を出品して、花紋章(一等賞)を獲得した。
 明治11年、パリ万博の事務局員となり松方正義総裁に随行して渡仏、万博閉会後パリに残って美術学校に入学し、レオン・ジェロームに新古典主義の技法を学んだ。明治13年、日本人初の『裸婦』図を描き、明治16年、ブルターニュ地方サン・テノガの友人別荘の壁に描いた『松に鶴』『梅に鶯』『竹に雀』の壁画は、当地の文化財に指定されている。帰国を前にパリの画廊で300点余りの作品で個展を開き好評を得た。
 明治19年、法律を学ぶため渡仏して来た黒田清輝に出会い、彼の作品を鑑て「この男なら、日本を代表する画家になれる」と転身を勧め、パリでは主流になっていた印象派の画法をラファエル・コランに学ばせた。偉大な芸術家の黒田清輝は、山本芳翠によって生まれたと言って過言ではない。
 明治20年、合田清と共に帰国し、画塾の生巧館を開設、後進の指導と洋画普及に情熱を注いだが、明治26年、大きく成長して帰国した黒田に生巧館を譲り、後進の指導を託した。日本洋画界の発展を願う芳翠の気持ちがよく表れている。
 芳翠の代表作『浦島図』は日本浪漫主義の最初の作品と言える。芳翠がフランスから帰国した頃は日本国内では伝統的な日本美術のみを重用し、洋画を冷遇視していた。そのため、芳翠は本格的な洋風描写で『浦島図』を描き上げた。
 また二大洋画団体「明治美術会」「白馬会」の結成に参加し、洋画団の重鎮の役割を果たした。

恵那市発行 『地域の誇り 恵那の先人 三十人』より