三好学

三好学Miyoshi Manabu 文久2年(1862)~昭和14年(1939) 植物学者 恵那市(岐阜県)
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プロフィール

 三好学は岩村藩・江戸藩邸で生まれ、幼年を岩村(現在の恵那市岩村町)で過ごした。しかし、11歳の時、父が亡くなり、福井県三国町の浄土宗西光寺の住職に預けられ、教育を受けた。明治9年、後の石川県第三師範学校に入学、卒業すると岐阜県に帰り、18歳で土岐学校(現在の瑞浪市土岐小学校)の教員としてまた校長として授業や学校の運営に当たった。
 学は自分の授業内容を「授業日誌」として克明にまとめ、記録した。この克明な授業内容の記録から汲み取りうるものは授業そのものへの熱意と探求心であり、一時間一時間の授業内容を通しての未来への思いである。また、自身で教科書を発行したが、わが国近代教育の夜明けの時期におけるまれにみる第一級の教育史料と言える。
 明治22年帝国大学理科大学植物学科を卒業、大学院に進学し、植物学の研究を続けた後、ドイツへ留学。帰国後35歳の若さで帝国大学理科大学教授に就任し、理学博士の学位を受けた。在任中、わが国の植物学の基礎を築き、花菖蒲と桜の研究における第一人者となった。
 毎年、花菖蒲が咲き、花がしぼむまでは風雨の日もいとわず培養試験を行い、品種の系統について進化の道程に精密な研究を続け、『花菖蒲図譜』にまとめあげた。一巻につき25種が着色木版で印刷され、写生図は100種が掲載されている。
 また、『櫻花図譜』は着色木版の桜花写生図で第一巻には彼岸桜、枝垂桜、染井吉野、白川桜、紅山桜等の里さくら71図を載せ、第二巻には、里桜その他47図を載せている。この図譜中、学名に「ミヨシ」の名の付いた桜が100種をはるかに超えている。
 博士は幼少の頃から東濃地方の恵まれた自然の中に育ち、植物学研究を通して、誰よりも自然のすばらしさを感じていた。
 しかし、明治時代の産業革命の風潮により歴史的に貴重なものや古くからの名勝、自然景観、名木や巨樹などが破壊され切り倒された。多くの貴重な自然が人の手により絶滅の危機に追いやられることに博士は激しい怒りと悲しみを感じていた。そして学術上価値のあるものは法律で保護するべきであると、世に先駆けて訴えるようになった。
 博士の努力によって大正8年「史跡及び天然記念物保存法」が公布施行された。その後、博士は東京帝国大学教授を退官してからは、天然記念物の保存にますます熱意を燃やし、植物天然記念物の調査活動を精力的に行った。その踏査報告書の中に
・静波村(現恵那市明智町)の枝垂れ栗
・静波村の幹が癒合した夫婦楓(枯れて現存しない)
・三郷町のハナノキの自生地
など保存の必要性が明記されている。また、現在様々な分野で用いられている「景観」という言葉を生んだことでも知られている。

恵那市発行 『地域の誇り 恵那の先人 三十人』より