野村洋三

野村洋三Nomura Youzou 明治3年(1870)~昭和40年(1965) 戦後の横浜復興に尽力した実業家 大野町(岐阜県)
先人一覧へ

プロフィール

 野村洋三(のむら・ようぞう)は日本と外国との懸け橋となり、横浜の発展に貢献した大実業家です。渾名は「ミスターシェイクハンド」。ホテルニューグランドの会長でありながら、毎朝ホテルの宿泊客にあいさつして握手し、港周辺を散歩する姿は横浜の名物でした。
 洋三は、明治3年(1870)、八木村(大野町公郷)で生まれました。幼名は梅太郎。幼い頃から海外に憧れ、14歳で両親の反対を押し切り家を出、自ら「洋三」と改名しました。
 明治23年(1890)、苦労してアメリカに渡航した翌年、帰国の船中で新渡戸稲造と出会い、「日本と外国の架け橋になれ」という言葉に感銘を受け、明治28年(1895)、25歳で古美術店「サムライ商会」を開業しました。奇抜な建物に仏像、錦絵などの古美術品や京都・大阪の土産品など、欧米人の趣味趣向に合わせた高品質な商品を良心的な価格で販売しました。28歳で結婚した妻のミチも語学堪能だったため、外国人に評判が良く大いに繁盛しました。商売の傍ら、仕事を通した知遇をもとに日本と世界の政財官の橋渡しにも貢献しました。
 大正12年(1923)、同郷の原三渓と箱根で過ごしていたとき関東大震災が発生しました。洋三は建物と美術品の全てを失いましたが、三渓ともにサムライ商会跡地に復興会事務所を設置して復興に奔走し、昭和2年(1927)、横浜復興のシンボルとしてホテルニューグランドが建設されると、昭和13年、周囲に推されて68歳で会長に就任しました。
 昭和16年に太平洋戦争が勃発すると、戦時下でサムライ商会の経営を断念して閉店、昭和19年5月の空襲で建物も失われてしまいました。
 昭和20年(1945)8月、ホテルは進駐軍司令部に接収され、マッカーサー元帥もホテルに宿泊しました。洋三はマッカーサーにこどもや女性の安全確保と食料事情の困窮を訴え、市民への食糧放出を願い出たところこれが受け入れられ、数日後、援助物資が市長あてに届けられました。
 昭和21年、神奈川商工会議所会頭に就任して戦後復興に尽くし、日本商工会議所副会頭など多くの要職を歴任するとともに、横浜日米協会や横浜ロータリークラブを立ち上げるなど日本と西欧諸国との文化交流にも貢献しました。
 昭和40年(1965)95歳で生涯を閉じました。横浜の発展に捧げた一生でした。

参考

野村洋三顕彰会公式ホームページ(https://nomurayozo.com/)