プロフィール
天文13年(1544)、大御堂(現在の岐阜県揖斐郡大野町公郷)生まれ。のち菩提山城(垂井町)に移る。永禄7年(1564)、わずか主従18名で稲葉山城を占拠して主君斉藤龍興を追うが、半年後に龍興に城を返却して隠棲する。
元亀元年(1570)頃信長に仕え、木下藤吉郎(のちの秀吉)の与力となる。以後、秀吉の参謀として近江、長篠、中国と転戦するが、天正7年(1579)三木城攻めの陣中で病没。享年36歳。
有岡城に幽閉された黒田官兵衛は半兵衛の死後救出され、一子松寿丸(のちの長政)と再開を果たす。松寿丸は官兵衛の寝返りを疑った信長に殺害を命ぜられていたが、半兵衛が松寿丸を匿い通したことを知った官兵衛は、半兵衛に深く感謝し、長政も関ヶ原の役で西軍方だった半兵衛の子重門を東軍へ取りなすなど、黒田家は江戸時代を通して竹中家への恩義を忘れることはなかった。