竹中半兵衛

竹中半兵衛Takenaka Hnbe 天文13年(1544)~天正7年(1579) 秀吉に仕えた天才軍師 大野町(岐阜県)
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プロフィール

 竹中半兵衛重治(たけなか・はんべえ・しげはる)は、天文13年(1544)に大御堂(現在の岐阜県揖斐郡大野町公郷)で生まれました。永禄元年(1558)、父重元が岩手弾正を滅ぼして菩提山城(岐阜県不破郡垂井町)に移りました。半兵衛14歳の時のことです。
 永禄7年(1564)2月、わずか主従18名で難攻不落の稲葉山城(岐阜城)を一夜のうちに占拠し、半兵衛の知略は瞬く間に世間に知られるようになりました。美濃攻略を目論む織田信長は、半兵衛に破格の条件で城を明け渡すよう求めましたが、半兵衛は主君を諫めたに過ぎないとして信長の申し出を拒絶し、半年後、主君斎藤龍興に城を返却して退去しました。
 その後、半兵衛は栗原山(垂井町)に隠棲していましたが、元亀元年(1570)頃信長に仕え、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の与力につけられました。以後、秀吉の参謀として近江、長篠、中国と転戦します。半兵衛の働きは半ば物語的な逸話が多いのですが、主な功は調略であり、三木城(兵庫県三木市)の兵糧攻めも半兵衛の献策といわれています。戦わずに有利な状況にすることが半兵衛の真骨頂でしょう。
 天正7年(1579)三木城攻めの中、平井(三木市)の陣中で病没しました。享年36歳でした。
 天正6年、翻意した荒木村重の説得のため有岡城(兵庫県伊丹市)を訪ねた黒田官兵衛は、有岡城に幽閉されてしまいました。官兵衛の寝返りを疑った信長は、官兵衛の一子松寿丸(のちの長政)の殺害を命じますが、半兵衛は官兵衛を信じて松寿丸を匿い通しました。翌年10月、救出された官兵衛は松寿丸と再開を果たしましたが、半兵衛は死去した後でした。官兵衛は半兵衛に深く感謝し、長政も関ヶ原の役で西軍方だった半兵衛の子重門を東軍へ取りなすなど、黒田家は江戸時代を通して竹中家への恩義を忘れることはありませんでした。