プロフィール
秋月種茂〈あきづきたねしげ〉は寛保3年(1743)11月30日、日向国高鍋藩〈ひゅうがのくにたかなべはん〉6代藩主秋月種美〈あきづきたねみつ〉の長男として江戸の藩邸に生まれました。種茂は、早くから聡明で学問を好み、情け深く、よく人の意見を聞き入れ高鍋藩の全盛期を実現させました。弟は、米沢藩の立て直しで知られる米沢藩〈よねざわはん〉9代藩主の上杉鷹山〈うえすぎようざん〉です。
18歳で家督を相続し、宝暦11年(1761)の19歳の時にお国入りし初めて高鍋の地を踏みます。若き藩主は、慣例にとらわれない施策を次々に実施し、財政の再建と高鍋藩の発展に力を尽くしました。
まずは、有能だが家柄が低いため下の位にいた新進気鋭の人材登用に取り組み、斬新な発想と周到な計画によって様々な施策を実施しました。その半年後には、世界初とも言われる児童手当制度を作ります。これは、農民の間引きを禁止し3人目の子どもから1日につき、米2合または麦3合を支給するというものでした。そのほか、優秀な産婆を大阪から招き出生率を高める、朝鮮人参を栽培して薬代に乏しい領民へ施すなど、福祉文化的土壌を整えました。
歴代藩主が代々取り組んできた新田開発にも熱心で、日照り対策も怠りなく、ため池を新たに14ヶ所、水路を5ヶ所掘っており、現代の高鍋町の農業にも大きな役割を果たしています。また、飢饉に備えて籾を貯蓄しており、大飢饉がやって来ても餓死者は出ず全国的に広がっていた農民一揆も起こっていません。むしろ天明8年(1788)には、前年の凶作の際に地税を免除されたことに対し、延べ2万5千人もの農民が井手修復の奉仕を申し出て感謝の念を表しています。
特に、教育には最も力を注ぎました。家臣の千手八太郎〈せんじゅはったろう〉の進言により、安永7年(1778)に藩校「明倫堂」〈めいりんどう〉を設立し、同校は藩士だけでなく町民や農民も身分に関係なく入学することができました。一般庶民にも学ぶ機会を与えることで領民全体の教育水準を高めたのです。この明倫堂からは、のちの時代の日本を引っ張る多くの傑出した人物が輩出されました。「国づくりは人づくり」という種茂の想いが結実した施策と言えます。
種茂の人柄を表すこんなエピソードがあります。村を見回っていた種茂は、田んぼで一生懸命働く1人の農民を見つけました。近くには農民の弁当が置いてあり、家来にその弁当を開けさせると、その弁当は米粒などはなく菜っ葉ときび団子でできた粗末なものでした。じっとそれを眺めていた種茂の目には涙が浮かんでおり、その弁当を食べてみましたが不味くてとても食べられるようなものではありませんでした。種茂はその農民を呼んで「弁当を無断で食べてしまい誠にすまないことをした。その代わり、自分たちの弁当をやる。」と言って、酒・魚・米のご飯などを与えました。農民は驚きつつも、種茂の優しさを感じて、熱い涙を流しました。
領民を想う仁の心で「文教の町」の礎を築いた種茂の善政は、明倫の教えとともに現在も「高鍋城灯籠まつり」や学校教育等を通して高鍋町に伝えられています。