石井 十次

石井 十次Ishii JuJi 慶応元年(1865)~大正3年(1914) 児童福祉の父 高鍋町(宮崎県)
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プロフィール

石井十次〈いしいじゅうじ〉は慶応元(1865)年、宮崎県児湯郡上江村馬場原に高鍋藩の武士・石井萬吉〈いしいまんきち〉の長男として生まれました。母・乃婦子〈のぶこ〉は貧しい人を手助けする優しい性格で、その姿を見ていた十次は、困った人を助けずにはいられない性格に育ちます。それに加え、思想や人格形成に影響を与えたのが高鍋の気風です。当地には高鍋藩明倫堂教育と呼ばれる教育文化が根付いており、年長者を敬い困ったときは助け合うという精神風土が形成されていました。十次は6歳からこの明倫堂で薫陶を受けていました。

7歳の時のこと。村の祭りに真新しい帯を締めて出かけると、ぼろの浴衣に縄の帯を締めた貧しい友が身なりのことで苛められていましたたが、十次は自分の帯をあげて励ましました。この「縄の帯」の話は、自分のものを差し出し人を助ける十次の心を表す話として今も高鍋町の児童生徒に語り継がれており、有名なエピソードです。

医の道を志していたある日、貧児を引き受け孤児教育会を設けますが、医学と孤児救済の両立は困難でした。「医者になる者はほかにいるが、孤児救済は自分しかできない」と、これまで学んだ医学書を全て焼き捨てます。一生を孤児救済に捧げるという強い覚悟の現れでした。

岡山孤児院を運営し、濃尾大地震や東北飢饉による孤児を引き取り、在院は一時1200名にものぼりました。院の経営は苦しく困難が尽きませんでしたが、持ち前の猪突猛進の性格で情熱を持って突き進んだのです。生涯で救済した孤児は3千名にも及びます。

十次は先駆的な養護法で児童教育に取り組み、教育を施して手に職を付けさせ、自立へと導きました。また、子どもたちが自然の中で働き、かつ学ぶ“理想郷”実現をめざし、明治27(1894)年、郷里の宮崎県茶臼原〈ちゃうすばる〉で開墾を開始し、孤児院を移転させます。

孤児院移転が完了して程なく、大正3(1914)年に48年の生涯を終えます。

十次は「児童福祉の先駆者中心的人物」と評価され、道徳教科書への掲載や、唱歌「石井十次」がつくられています。平成28(2016)年には、安部首相が国会施政方針演説で「なせよ、屈するなかれ。時重なればその事必ず、成らん」の言葉とともに十次の功績を紹介しています。

ふるさとの自治体「宮崎県高鍋町」